2010年ツアー報告書

報告書

期間
2010年8月17日~8月26日(10日間)
スケジュール
17日 <プノンペン> ポチェントン病院、トゥールスレイン博物館
18日 <スヴァイリエン> 医療施設建設現場、トヴァイン小学校、職業訓練センター
20日 <バッタンバン> ラチャナハンディクラフト、孤児院ホームステイ
21日 <バッタンバン> 孤児院交流、JMAS訪問
23日 <シェムリアップ> アンコールワット遺跡群
24日 <シェムリアップ>アナコットの活動見学
25日 <プノンペン> 小児病院、救急隊、TICOの活動視察、センソック地区でホームステイ
26日 <プノンペン> センソックで交流、バンコクで一泊して翌日帰国

「二度目のカンボジアで得たより深い学び」

香川大学経済学部4年 北山淳子
大学4年となった今年、卒業論文でフェアトレードについて書くと決めてから、実際にカンボジアで生産者の現状を調査したいと思っていた。今回幸運にもチャンスが巡ってきて、2回目のスタディーツアーへ参加できることとなった。結論から言うと、現地で懸命に活動している多くの方々と出会い、フェアトレードだけに限らず本当に多くの事を学べたツアーだった。全文

「30年後を創造する」

香川大学経済学部3年 上原由雅
2010年8月、セカンドハンドのカンボジアスタディツアーに参加した。約10日間の日程で4つの都市を回り、たくさんのものを見聞きし考えさせられた。思ったことも感じたこともすべて書きたいが、とてもまとまらないので、その中でも私が特に印象に残った『指導者育成』について書くことにする。全文

「スタディーツアーで学んだ事」

>国際基督教大学教養部2年 石垣里紗
私が国協力に興味を持った最初のきっかけは、「国際」という華やかなイメージに憧れたからだ。しかし、スタディツアーに参加して、途上国支援がどのようなものか知り、国際協力に対する見方が変わった。スタディツアー後、国際協力とは日本で出来る地域活動を海外で行うことだと考えた。全文

「食料問題ともてなしの心」

香川大学教育学部2年 山下恵奈
私は今回のスタディツアーで、“カンボジアを知ること”をテーマにしていた。1年生の時からLIFTとしてセカンドハンドに関わらせていただいて、カンボジアにとても関心を持つようになった。国際協力論(参加するきっかけになった大学の講義)の合宿に参加したり自分なりに勉強したりして、カンボジアの悲しい歴史のことや、今現在も続いている売春の被害、修学の問題などを知るうちに、こういう現状に苦しんでいる人が世界には存在しているんだということをもっと大勢の人に知ってもらいたいと思うようになった。全文

「小指会の足跡を辿る」

香川大学教育学部1年 太田詩織
セカンドハンドでボランティアを始めて約5年、学生部「小指会」のメンバーになって約4年という歳月が流れ、やっとの思いで参加することができたこのスタディツアー。今では、小指会の中心メンバーとして重役を任されるようにもなり、様々な活動を行ってきた。しかし、実際に写真や話では聞いていたものの、その実態は直接見たこともなく、また、私たちの活動の結果がどんな影響を与えているのか、もっと他にできることがあるのか、活動過程でそういった疑問もわいていた所へ、今回のカンボジアへ行くチャンスをいただけた。全文

「百聞は一見に如かず」

誠陵高校2年 平勇輝
「百聞は一見に如かず」という諺があるが、今回のカンボジアへのスタディーツアーはまさにこのことだと思う。統計的事実でいえば、カンボジアは、1人当たりのGNI(国民総所得)が550ドルしかない。これはカンボジアの人口の半分にも満たないラオスよりもさらに低く、ASEAN加盟国中最低の値だ。全文

「カンボジア活動の原点に帰る」

事務局スタッフ 斉藤菜穂
セカンドハンドで働き始め2年目になり、ようやく訪れた現地視察のチャンス。日々の活動がどのように実際に現地で実っているのか、自分の目で確かめたかった。セカンドハンドが建設支援をした病院、職業訓練センター、学校など。すべてがビデオで見たものだったが、実際にこの目で見たとき、思わず鳥肌が立った。同時にセカンドハンドに関わるすべての人たちの顔が浮かんだ。全文


香川大学経済学部4年 北山淳子
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大学4年となった今年、卒業論文でフェアトレードについて書くと決めてから、実際にカンボジアで生産者の現状を調査したいと思っていた。今回幸運にもチャンスが巡ってきて、2回目のスタディーツアーへ参加できることとなった。結論から言うと、現地で懸命に活動している多くの方々と出会い、フェアトレードだけに限らず本当に多くの事を学べたツアーだった。中でも印象に残っているのが、ラチャナでの生産者インタビュー、センソックでのホームステイと、ほぼ毎晩行ったツアーメンバーとのディスカッションだ。
ラチャナでのインタビューは、機織り職人の女性(52才)と縫子の女性(52才)に行った。2人とも同じ年齢ということもあり、似たような環境で育ってきていた。17才頃ポル・ポト時代に突入し、強制労働で農業や水路整備に従事していたという。ポル・ポト時代後は、市場で野菜を売るなどして生計を立てていたが貧しかった。そこで、ラチャナで技術を学び、働くことにしたのだという。1人の女性はインタビュー中に涙を流しながら、「私たちも頑張るので、もっと市場を開拓して欲しい」と訴えていた。ラチャナや職業訓練センターで働いている人々は、製品を作った分だけ給料がもらえるため、セカンドハンドが売れば売るほど彼女たちは多く製品を作ることができ、収入が増える。インタビューしたうちの1人は現在約80米ドルの月収があり、以前より生活は改善したが、それだけでは足りない時もあるという。新田さん(引率者)曰く、技術と製品価格が見合っていないことが大きな問題だそうだ。ラチャナや職業訓練センターで作られた製品は、他のフェアトレード団体の商品に比べて品質が高いにも関わらず価格が安く、セカンドハンド以外のNGOとも取引がある。しかし、その中には「値上げをするなら取引をやめる」と圧力をかけてくる団体もあるため、ラチャナも価格改定に消極的だということだった。セカンドハンドの売価も1年前に値上げしたが、それでも収益的にはかなり厳しく、中には原価割れしている製品もあるそうだ。課題を改善しながら、もう少し確実に収益の得られる仕組み作りや、日本での販路を広げることも重要だと感じた。原価が高い商品をある程度消費者が買いやすい価格で提供するためには、大量に販売することが必要である。新田さんが、それを「売らなければという感覚ではなく、自分の活動としてやっている」と仰っていたことが印象的だった。私もLIFTの一員として、学祭やイベントでラチャナの製品を売る機会をもっと積極的に作り、彼女たちの自立がより強固なものになるよう活動していきたいと感じた。
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センソックでは、ライ(21才、男性)の家庭にホームステイした。両親と兄弟5人の7人家族だが、父親は大工の仕事で出稼ぎへ、姉はマレーシアへ出稼ぎに行っている。普段は1日2食しか食べていないのだが、気を遣って朝ご飯を作ってくれたり、肉・魚料理を作ってくれたりしたのがとても嬉しかった。驚いたのは、最近センソックに韓国やマレーシア系企業関係者を名乗る者がやって来て、「仕事があるから外国で働かないか」と上手い話を持ちかけ、若い女性らを外国に連れていくケースが起こっていることだ。中には親にお金を払って子どもを連れて行くケースや、不法入国・不法滞在で仕事をさせられるケース、人身売買の被害に遭うケースもあると知り、とても怖くなった。ライは、お姉さんはマレーシアの工場でスパゲッティを作る仕事をしていると言っていたが、実際はどのような状況なのか分からない。自分の友人の家族が被害に遭っているかもしれないと思うと、本当にぞっとする。しかも、センソックの多くの人々はまだその被害に気付いていないので、急速に知らせ、被害を未然に防ぐ必要があると感じた。また、1つの問題を解決しても、新たに起こる問題に対処していくのは相当な決意と地道な努力が必要だと思う。どんなに困難な問題でも、あきらめずに立ち向かうことが大切だと感じた。
ツアーメンバーとのディスカッションは、眠い中、ほぼ毎日夜遅くまで行われた。その中でも特に印象に残ったのが、ツアー中何度も話し合った「支援は本当に必要かどうか」というテーマだ。私は、農村地域で伝統的な暮らしを営む人々を目にして、この人達の暮らしを壊してまで開発することが果たして「支援」と言えるのだろうか、と考えていた。確かに、現地の人の声を聞かずに支援する側の勝手な判断や思い込みで行う活動は、「支援」ではない。しかし、もし貧しく学校に通えない子どもがいたら?病気になっても近くに医療施設がなかったら?その人達のために何かをしたいと思うのは、ごくごく自然なことだと思う。だから私は、「支援は必要か」と聞かれれば、「困っている人がいるから支援は必要」と単純に答える。「国際協力」というと大げさに聞こえてしまうけれど、困っている人のいるところがたまたま違う国だっただけ。国境は人間が後から勝手に引いたもので、私にとっては、国内も国外も大きな差はない。例えば、ある問題が社会の中にあって、その解決方法を知っている人が、知らない人に教える。解決のために協力する。その活動が、たまたま「国際協力」という名前のものだったのだと思う。このツアーで「支援」について深く考えたことで、自分の活動の原点や、これから自分がやりたいことがより明確になった。困っている人々の生活が改善するよう、私はこれからも活動を続けていきたいし、今の自分の恵まれた環境に感謝することを忘れずにいたいと思っている。
最後に、このような非常に充実したツアーに参加させていただき、本当にありがとうございました。ボランティアの皆様の支援が積み重なって、カンボジアで多くの実りをもたらしていることに感動する一方で、やるべきことがまだまだあると知って、ますます活動への意欲が湧いてきました。今回学んだことを胸に刻んで、社会人になってからも活動を続けていきます。本当にありがとうございました。


香川大学経済学部3年 上原由雅
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2010年8月、セカンドハンドのカンボジアスタディツアーに参加した。約10日間の日程で4つの都市を回り、たくさんのものを見聞きし考えさせられた。思ったことも感じたこともすべて書きたいが、とてもまとまらないので、その中でも私が特に印象に残った『指導者育成』について書くことにする。
恥ずかしながら、今回ツアーに参加するまで知らなかったことだが、カンボジアでは長く続いた内戦とポルポト政権時代によって170万ともいわれる国民が殺された。完全平等共産主義を推し進めたポルポトは、教育を廃止し歴史文書は残さず焼却、都市人口を農村に強制移住させ農業に従事、少しでも知識を持つ者は反革命派とみなし拷問・虐殺・・・。
『170万』とか『知識人階級が』とか言葉で聞いてもいまいち実感が湧かなかった。しかしポルポト政権から30年後の今、カンボジアを訪れてそれがどういうことなのかわかった。医者のいないヘルスセンター、基礎ができてない学校教師、傷口にガソリンをかけるという応急手当等々、私がカンボジアに着いての最初の印象は『昭和初期の日本(注:イメージ)にタイムスリップしたみたい』だったが、それにしても信じられないような光景だった。途上国支援は人材育成が最も重要だとは聞いていたけど、結局はお金さえあれば何とかできるとの思いもあった。もちろんお金は必要なのだが、しかしいくらお金があっても人が育たなければ何にもならないことを実感した。今の医師やナース、教師たちはカンボジア再建のために努力した優秀な人たちだと思う。少ない給料で副業を持ちながらでも住民のため、子どもたちのために尽くしている人ばかりだった。
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カンボジアでお会いすることができた日本人の方もやはり指導者の育成に一番力を入れているようで、シニアボランティアで病院に勤める楠川さんは「知識の無いままナースになった人が今は指導者の立場になっていて次の世代に教えることができないから困っている。1回目は技術指導に来たけど、今回は人材育成を目的に来たんだ。」とおっしゃっていたし、TICOの大坪さんは「日本人スタッフはあくまで黒子です。カンボジア人が動きやすいようにサポートをするだけです。」とおっしゃっていた。国の最大の財産は人なんだと実感することができたし、今までは技術を後世へ伝えること・次世代の人材を育成することがこんなに大事なことだとは思っていなかった。日本でも産婦人科医になる人が減ったり教師を目指す人が減っているように感じる。もちろん嫌々仕事を決めるのではなくやりたいことをする方がいいに決まっているけど、30年後を考えた時、自分の子どもがどのような社会で生きていくかを考えたら、教育(『子どもの』という意味でも『次世代の』という意味でも)という仕事は本当に影響力が大きく、誇り高いものなんだろうなと思った。
指導者の育成は時間がかかるので、結果が出るのは早くても20~30年後だと思う。先進国でも途上国でも同様に、先のこと、次の世代のことを考えて政策を考えたり生活しなければならないと感じた。
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最後に、前々から思ってはいたが、私は想像力が豊かではなく自分の目で見てみないと信じられない性格だ、ということもこのツアーで気づいたことの一つである。一方で、カンボジアで見聞きしたことのうち半分くらいは聞いたことがあるもの、つまりセカンドハンドのニュースレターを通して知っていたことが多く、ニュースレターは嘘の無い真実をきちんと伝えているということに気がついた。私は今回、家族の理解もあって自分の目で現地の様子を確かめることができたが、多くの支援者の方は行きたくても行けず、ニュースレターでしか現地の様子を知ることができない。今までセカンドハンドに関わっているとは言っていたけど、いつも自分のことを優先してしまって、お店番には入ってないしボランティアの方の名前も覚えられてない。でもセカンドハンドに関わっている多くの方は自分の目で見たことがあるわけじゃないのにカンボジアの支援のために時間を割いて協力している。こう考えた時、改めてセカンドハンドの偉大さというか信頼度の高さを実感した。たくさんの人の協力で成り立っているセカンドハンド、その代表として今回カンボジアに行けたことに感謝し、これからもっともっと協力的になろうと思った。


国際基督教大学教養部2年 石垣里紗
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私が国協力に興味を持った最初のきっかけは、「国際」という華やかなイメージに憧れたからだ。しかし、スタディツアーに参加して、途上国支援がどのようなものか知り、国際協力に対する見方が変わった。スタディツアー後、国際協力とは日本で出来る地域活動を海外で行うことだと考えた。もっとも、途上国で活動するには、言葉の壁や文化の違いなどがあり、日本で行うよりも大変だと考えた。同時に、カンボジアの貧しい現状を見て、支援がとても必要とされていることを実感した。また、支援の規模にかかわらず、行動を起こすことが大事であると知った。
スタディツアーに行くにあたって、私が知りたいことは3つあった。1つ目は支援によってカンボジアの人々の暮らしはどのように変化したのか。2つ目は、カンボジア人は支援してくれる日本人をどう思っているのか。3つ目は効果的な支援の方法はどのようなものかである。
1つ目の疑問は、女性の職業訓練としてカンボジア製品を作る作業場・ラチャナへ行き、すぐに解消した。そこで働いている女性にセカンドハンドの支援の結果、生活は良くなったのか聞いた。女性は支援の結果、生活が楽になり、「とても感謝している、もっと注文してほしい」と答えた。支援により、確実に生活が良くなったことを知った。また、セカンドハンドが支援した病院で診察を待っている多くの人々を見て、病院が必要とされていたことが分かった。徳島のNGO、TICOによる、村で応急処置を教える啓発活動は村人の生活の質の向上に役立っていた。村の人々は、応急処置の方法として傷口にガソリンや歯磨き粉を塗っていたそうだ。知識がないために、健康が脅かされているのは怖いことだと思った。
2つ目の疑問は特に心配すべきことではなかった。以前、途上国支援は、自分たちの大学に突然外国人が来て、PTA活動をするようなものだと聞いたことがあったので、この機会に現地の人に聞いてみたかった。TICOが支援した村の人は日本人に感謝していると答えたので、ラチャナ同様、現地の人は支援を嬉しく思っていることが分かった。
3つ目の効果的な支援とは、物ではなく人を支援するということだと考えた。ワット・ボー小学校で音楽の先生として活躍する田中千草さんが、日本から送られたピアニカを授業で使っているように、物を生かす支援が必要だと思った。反対に、悪い支援の例は、病院で使う機器を、カンボジアで買うことも、直すことも出来ないメーカーのものにすることである。そのような機器は、壊れたら使えなくなってしまうし、カンボジアにお金が落ちなくなってしまう問題があることが分かった。支援は最終的に現地の人が自立できる仕組みにする必要があると考えた。その点で、地雷処理後の地域活性化のために焼酎工場を作ったJMASの高山さんは、良い支援をしていると思った。
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私がスラムで滞在したのはセカンドハンドの奨学金支援を受けている19歳のリタの家だ。リタの家に一泊して、歳のあまり変わらないリタと自分の生活の違いを知った。リタは毎朝、奨学生のボランティアとして近くの貧しい村で子どもたちのために、おかゆを作りに行く。私もリタに同行して一緒におかゆを作った。そこで、分かったことは、家でご飯を食べることができない子どもたちがいることだった。小屋の中で、子どもたちは各自お皿を持って行儀よく、おかゆが注がれるのを待っていた。日本では考えられない光景に衝撃を受けた。ボランティアが終わって家に帰り、皆でテレビを見たり昼寝をしたりした。カンボジア人も日本人も団らんの様子は同じだという印象を受けた。住む場所が違っても、同じ人間だと思った。また、リタはとても優しくて、しっかりした人だったので、英語の先生になるという夢をかなえてほしいと思った。
カンボジアに実際に行き、日本での自分の生活がとても恵まれていることがわかった。当たり前のように小・中・高・大へと進ませてもらえたことはとても有りがたいことだと思った。自分自身を振り返ってみると、今の自分の素養になっていることは、ほとんどが学校で教えられたことだ。読み書き計算を教えてもらい、知らないうちに可能性が広がっていたのだと考えた。例えば、数字が分かるので、買い物が滞りなく出来たり、容器に書いている文字が読めるので、中身が口に入れるものかどうかなど判別できたりする。教育はとても大事だと思った。同時に、カンボジアのような途上国の人々にも、最低限の文化的な暮らしをして欲しいと思った。スタディツアーに行って、途上国支援を知れて、とても良かった。草の根から活動している人や団体に出会い、地道に改善していこうとする姿勢に感動した。自分も少しでも力になりたいと思った。


香川大学教育学部2年 山下恵奈
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私は今回のスタディツアーで、“カンボジアを知ること”をテーマにしていた。
1年生の時からLIFTとしてセカンドハンドに関わらせていただいて、カンボジアにとても関心を持つようになった。国際協力論(参加するきっかけになった大学の講義)の合宿に参加したり自分なりに勉強したりして、カンボジアの悲しい歴史のことや、今現在も続いている売春の被害、修学の問題などを知るうちに、こういう現状に苦しんでいる人が世界には存在しているんだということをもっと大勢の人に知ってもらいたいと思うようになった。すぐ身近にあるセカンドハンドという団体が支援している、カンボジアという国にもっと関心を寄せてほしいと思うようになった。そしていざスタディツアーに参加することを決めて、親や友達に「カンボジアってどんなところなの?」と聞かれたとき、私は言葉に詰まり困ってしまった。カンボジアはこういう所だと周りに教えてあげられるだけの知識をまるで持っていなかったからだ。私がカンボジアに対して持っていたイメージは、貧しい村の様子や物乞いをする人たちの姿で、カンボジアの町がどんな様子なのかとか、どんな料理を食べているのかは、やっぱり写真でしか見たことがなくて。自分の知識がこんなに乏しいのに、周りの人に知ってもらいたいと思うのはすごく勝手で図々しい事のような気がした。だから今回のスタディツアーで、セカンドハンドや他のNGOの支援先を見学したりお話を伺ったりすることで、自分がより知識を深めることはもちろん自分の周りの人にも、カンボジアの人たちの生活や学校の様子を伝えたいと思った。
今回のスタディツアーを通して私が一番考えさせられたのは食料の問題だった。
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ホームランドに訪れたとき、職員の方は私たちの人数分の白ご飯とチキンとバナナを晩御飯に用意してくださった。私はその出された料理を、他のメンバーやホームランドの卒業生のブッティと談笑しながらたくさん頂いた。そして翌日、朝ごはんの準備ができたと聞いて外に出てみると、子供たちの中にはコッペパンのようなものを食べている子もいれば、日本にあるような小さな駄菓子を数人で食べている子たちもいた。でも私たちに用意されたのは、人数分の白ご飯のお粥と魚だった。それを見て私は2つのことを学んだ。ひとつはホームランドの深刻な食糧不足の問題だ。運営費が本当にぎりぎりなため、子ども一人分に必要なご飯やお肉や魚が全然足りていない。私は子供たちが前日の晩御飯に何を食べたのかは知らないけれど、きっと私たちが食べたようなお肉やフルーツが人数分支給されたわけではないだろうと思った。日本では一日三食の十分な食事を食べられることが当たり前になっているけれど、その豊かな生活が途上国では決して当たり前のことではないのだということを学んだ。
二つ目は、カンボジアの人のもてなしの心だ。こんなに食糧が不足している中で、私たちには十分な食事を振舞ってくださったことに初めはすごく驚いた。でもそれがカンボジアの人が大事にしているもてなしの心なのである。私たちが訪れたことを、先生も子どもたちも心から喜んで歓迎してくださった。それを考えると、この食事を食べると子どもたちの分が減ってしまうからなるべく食べないようにしよう、と思うのではなくむしろ、そのもてなしの心に感謝をして、食べ物のありがたみをしっかりかみ締めながら食べることが大切なのではないかと感じた。
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センソックのスラムでホームステイをした時にも同じようなことを思った。スラムでは周にごみの山がたくさんあって、すごく衛生的に良くない環境だった。一つ一つの家を見てみても、電気や水は通っているけれど決して食べ物が十分あるようには見えなかった。私のステイ先の家も、事前の情報で貧しい生活だということは知っていた。しかし実際にそこで一日を過ごしてみると、晩御飯には白ご飯のほかにスープやお肉やフルーツがたくさん準備されていた。朝ごはんも、お粥と魚とゆで卵を頂いた。ホームステイが終わって他のメンバーと情報交換をした時に、やはり他の家でもご馳走を振舞ってもらっていたことが分かった。今回私たちが体験したスラムでの生活が彼らの普段の生活そのものではないのだということをしっかり分かっていないといけないのだと強く思った。
日本人は普段の生活でどれだけの食糧を無駄にして生きているのだろうか。日本の各家庭やレストラン、ファーストフード店やコンビニなどで毎日捨てられている食糧を途上国に送ることができたなら、いったいどれだけの貧しい人たちを救うことができるのだろうか。私は今回のスタディツアーで、日本での豊かな生活を決して当たり前のものだと思ってはいけないのだということ、世界には十分な食糧を得られない人たちがたくさんいるのだということを忘れてはいけないということを強く感じた。そしてその人たちがその日一日を安心して暮らして行けるようになるまでは、私は自分ができることを続けていこうと思う。


香川大学教育学部1年 太田詩織
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セカンドハンドでボランティアを始めて約5年、学生部「小指会」のメンバーになって約4年という歳月が流れ、やっとの思いで参加することができたこのスタディツアー。今では、小指会の中心メンバーとして重役を任されるようにもなり、様々な活動を行ってきた。しかし、実際に写真や話では聞いていたものの、その実態は直接見たこともなく、また、私たちの活動の結果がどんな影響を与えているのか、もっと他にできることがあるのか、活動過程でそういった疑問もわいていた所へ、今回のカンボジアへ行くチャンスをいただけた。支援先をこの目で見ることができるという期待とカンボジアに行くことができるという喜びとで胸がいっぱいの出発であった。私にとって、今回のスタディツアーの最大の目的は、小指会が奨学金支援しているセンソックの学生たちに会うことであった。今まで小指会では、募金やバザー、国際協力ステージなど様々なことを行い、センソックの奨学生が学校に通えるように支援してきた。手紙交換やビデオレターなどのやりとりで交流したことはあったものの、やはり実際に会って触れ合えるということで、とても胸が高鳴っていた。
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ツアーの最終行程でセンソックでのホームステイを体験することができた。センソックに着くと、センソックの奨学生たちが出迎えてくれて、お互いの自己紹介をしたり、交流をしたりして触れ合った。奨学生たちとの交流は、本当に夢のようで、最初はなかなか実感が湧かず、不思議な気持ちのまま、あっという間に時間が過ぎ去ってしまっていた。みんな英語が上手で、本当に一生懸命勉強しているのだなということを感じ、7年以上勉強してもきちんと英語が話せない自分が恥ずかしくなった。私がホームステイしたのは、メヤス・ナバン(18歳)という女の子。いつも笑顔で明るく、よく話す子で、女の子たちの中心リーダー的存在であった。ナバンの紹介文をもらったときに、父親は亡くなり、母親が一人で生計を立てていて生活は苦しいと聞いていたので、どんな子なのかと少し心配していたが、私の予想を大きく反する子であった。ナバンの家は、地面の土がむき出しの床にそのまま建っていたので、下はどろだらけで歩くのも一苦労であった。私は、何回もどろに足をつっこんですべったので、「ちゃんと下を見て!」と何度も笑われてしまった。ナバンの家庭は、お母さんと弟の3人暮らしで、お母さんが台車を押しながら果物などを売り、また、家の入り口にお菓子を並べて売っていて、駄菓子屋さんのようなこともしていた。ナバンのお母さんは、朝早くに仕事に出かけ暗くなる前に帰ってくるため、ナバンが家事をすべて行い、その駄菓子屋も行っていた。お風呂や調理に使われる生活用水は外に溜めてある水を使い、家の中には電球が一つだけしかついていない。太陽が沈むと寝て、明るくなると起きるというような生活で、ホームステイ初日は衝撃的であった。2日目は、奨学生たちがボランティアとして、小さい子どもたちに勉強を教えるという家庭教師プログラムを見せてもらった。家庭教師プログラムのことは、よく話に聞いていたので、実際に見れたことに感動し、喋っている言葉も書いている文字も全く分からなかったけれど、生徒たちに混ざって、一緒に授業を受けた。そのあと、センソックの中学校と高校を見学しに行った。小指会が支援して建てた学校で、何度も話に聞き、何度も写真で見た光景が目の前に広がっていることが信じられなくて、感動した。”SECOND HAND Student’s club KOYUBIKAI”というマークを見つけると、不思議と小指会のみんなの顔が浮かんで、これまでの活動もいろいろと思い出して、感極まって、涙が出そうになった。
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また、ほとんど毎晩のように行われたディスカッションでは、みんなが考えていることや感じたことの意見交換ができ、自分の考えを深めることができた。特に印象に残っているのは「本当に支援は必要なのか」という話し合いをしたときである。私たち日本人から見ると、カンボジアのような発展途上国で暮らす人々は貧しくて満足な生活を送れていないように思えるけれど、そこの人たちにとっては、その生活が当たり前であって、私たちが手を加えることで、そこの伝統が崩れてしまうのではないかと思ったこともあった。しかし、このスタディツアーを通して、ただお金をあげたり、物を与えたり、学校を建てたりするだけではだめで、大切なのは人材育成であり、字の読み書きや一般的知識を身につけさせなければならないこと、そして、教育を受けることで、仕事に就けて、お金が稼げて、家族が養えることを伝えなければならないことを実感した。そのためには、私たち日本人のような先進国の力が必要なのではないだろうか。幸か不幸か、私は先進国という物資的に恵まれた国に生まれたのだから、途上国への国際援助は当たり前のことであり、支援する理由なんて本当はいらないのかもしれないと思えた。ただ自分たちのできることを一生懸命やって、誰か1人でも救えることができたら、それだけでいいのではないか。世界中全ての国の人々が同じように暮らすことは難しいが、今よりも良い未来につなげるために何かしたい。カンボジアに来てしまった、見てしまった、知ってしまったのだから、これを誰かに伝えたい、何かにつなげたいと強く思った。
カンボジアの食べ物はとてもおいしくて、人々もみんな優しくて温かかった。最初は、発展途上国に行くということで、不安もたくさんあったけれど、帰り際になると、すごくカンボジアが好きになっていて、もっとここにいたいと思っていた。今回のスタディツアーでは、トゥルースレインでポルポト時代の惨劇を知り、アンコールワットで綺麗な夕日を見ることができ、現地で働く日本人の方々に会って話を聞くことができ、セカンドハンドが支援した支援先にもたくさん訪れることができ、本当に充実した10日間であった。
最近、小指会のメンバーも減り、活動するのもいろいろと難しく、動きが鈍くなってきたと感じるけれど、そんなのは言い訳に過ぎず、もっと私が先頭に立って、引っ張っていくことができたら、何か変わるのではないかと改めて感じた。学生だけの力でこれだけのことができるんだ、と初心に戻らせてくれて、もっともっと頑張っていこう!と思えた。
このツアーで見たことや出会った人たちを思い出しながら、これからの活動の原動力としていきたい。そしてまた、カンボジアに行きたい!


誠陵高校2年 平勇輝
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「百聞は一見に如かず」という諺があるが、今回のカンボジアへのスタディーツアーはまさにこのことだと思う。統計的事実でいえば、カンボジアは、1人当たりのGNI(国民総所得)が550ドルしかない。これはカンボジアの人口の半分にも満たないラオスよりもさらに低く、ASEAN加盟国中最低の値だ。世界銀行が2009年に発表した”World Development Indicators 2009″では、1人当たりのGNIが935ドル以下の国を低所得国家と定めている。驚くことに、カンボジアは低所得国家群の中位に位置している。これらの情報が示しているのは、カンボジアがいかに深刻な貧困国であるかということだ。
とはいえ、1人当たりのGNIが37790ドルもある日本に住んでいる我々日本人が、一体どうやってカンボジアの実情を理解することができるだろうか。確かに、最近は、テレビでカンボジアをはじめとする貧困国を特集した番組が放送されることが多くなったが、我々日本人の多くは、テレビやインターネットの動画共有サイトなどといった映像を通してでしか、カンボジアの実情を知る機会がない。
松浦寿輝が著した「映像文化の変貌」という本の中に、興味深い記述がある。――「イメージ」とは、現実そのものではなく、現実に似せた仮の「似姿」でしかない。いわば徹底的に「空虚」なものだ。テレビ画面に映る映像も実は「空虚」であり、そこにはただ単に、光と影の戯れが映し出されているだけだ。そこには現実はなく、からっぽで重さを欠いた映像が、光と影の移ろいとして揺れているだけである。しかし、我々はそれを通じて現実の体験に参加しているかのような印象を受ける。徹底的に空っぽなものを通じて、充実した実体験の生々しい錯覚が生じる。――つまり、テレビなどを通してカンボジアの実情を知ると、何か強烈な実体験をしたように思えるが、それは単なる錯覚にすぎないということだ。おそらく、多くの人はテレビで貧困国特集を見ても、1日経てば内容を忘れているだろう。このことは、映像を通しての疑似体験がいかに薄っぺらいものかを、明確に示している。
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それだけに、今回のカンボジアへのスタディーツアーは、本当に「充実した実体験」であった。私は、渡航前のワークショップの最中に、このツアーのテーマを「教育」と決めていた。そこで、この報告書は教育にフォーカスして書いていきたいと思う。
ツアーを通して、私は、トヴァイン小学校やホームランド孤児院、ワット・ボー小学校、センソックの敷地内にある中学校と高等学校など数多くの教育施設・教育関連施設を見学することができた。特に印象的だったのは、ホームランドでの1日とワット・ボー小学校の音楽隊の素晴らしい演奏会だ。
ホームランドでは、約80人の孤児が生活している。彼らの中には、親から暴行された経験を持つ子や性的虐待を受けた子もいる。過酷な経験をした彼らは、心の奥に相当な闇を持っているはずと私は考えていたが、少なくとも孤児院滞在中にそれを感じることはなかった。彼らは、愛らしい程の笑顔の持ち主で、私自身この笑顔に相当癒された。彼らはとても好奇心旺盛で、私が持つもの全てに興味を示した。デジタルカメラにパスポート、シャツの英字から地球の歩き方まで、ありとあらゆるものを私のリュックから取り出しては、不思議そうに眺めていた。
ホームランドは、セカンドハンドや、日本の外務省などによって建設されている。事務所の前には、白い看板に青い文字で支援団体の名称が書かれていた。私は、世界各国で活動をするNPOがこれまで以上に相互協力していくことが、とても重要なことであると考えている。私のいう、相互協力とは、例えば日本のNPOとアメリカのNPOが共同出資して医療施設を建設・運営するなどというような国際間協力のことだ。もちろん、海外のNPOとは、組織形態も運営方針も収入源も全てが違っている可能性が高いが、それでも一部の活動を共同ですることに、私は意味があると思っている。というのも、NPOの活動を通して世界平和を実現できるかもしれないからだ。NPOのように非営利で活動する組織同士が世界各地で共同で活動を続けることができれば、支援をする国とされる国の2カ国間だけの関係に留まらず、3カ国、4カ国間と、国際貢献活動を通して複数の国を理解することができるはずだ。日本のNPOだから日本国内のNPOとだけ共同活動をするといった狭い見方ではなく、韓国、中国といった隣国にある同様な組織との連携も重視していくべきではないかと私は思った。
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そして、シエムリアップでは、ワット・ボー小学校を見学した。この小学校には5000人もの生徒がいる。あまりにも生徒数が多いため、午前の部に2500人の生徒が学び、残りの2500人は午後の部で学ぶ。ワット・ボー小学校の教室には、蛍光灯などの照明器具がなく、太陽が昇っていても、教室内は薄暗かった。机は木製で、所々深い傷ができている。小さなプラスチック製のイスに1人ずつ生徒が座って、必死に算数の問題を解いている姿には感激した。カンボジアの子どもに限った話ではないが、発展途上国の子ども達は意欲が高いように思う。決して良いとはいえない環境下でも、彼らは熱心に勉学に取り組んでいる。新品の教科書が毎年支給され、教室が照明で明るすぎるほど照らされて、頑丈な作りの机とイスが提供されている日本の学校とは相反している実情に衝撃を受けた。
カンボジアでは、発展途上国が抱える問題を垣間見ることができた。急激な経済成長を続け、首都プノンペンやアンコール遺跡群で有名なシエムリアップは、急速に都市化しているが、一方で、スヴァイリエンなどの地方都市との格差は広がりつつある。カンボジアでの実体験を通して、私は実に多くのことを学ぶことができた。
最後に、旅を安全にコーディネートして下さった新田さん、12日間の日程を共にした大学生の皆さんには、とても感謝している。そして何よりも、今回高いお金を快く出してくれた両親には、心から感謝の意を表したい。重度の口内炎に苦しみながらも、カンボジアでのスタディーツアーを楽しめたのは、他ならぬ皆さんがいてくださったお陰だ。自分の将来の夢である、国際貢献をする人間になるためにも、学校での勉強とボランティア活動を上手く両立させながら、セカンドハンドでの活動を続けていきたいと思う。


事務局スタッフ 斉藤菜穂
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セカンドハンドで働き始め2年目になり、ようやく訪れた現地視察のチャンス。日々の活動がどのように実際に現地で実っているのか、自分の目で確かめたかった。セカンドハンドが建設支援をした病院、職業訓練センター、学校など。すべてがビデオで見たものだったが、実際にこの目で見たとき、思わず鳥肌が立った。同時にセカンドハンドに関わるすべての人たちの顔が浮かんだ。日本とカンボジアは遠い。だが、建設支援をした建物を見たり、支援先の人々に会うと、二国がとても近い気がした。
支援先の人たちと交流していくにつれ、「支援する側」「支援をされる側」というよりは、お互いを大切にするパートナーのようなものなのかもしれないと感じた。セカンドハンドの活動は、現地との信頼関係が一番である。大金を寄付し、あとは自由につかってくださいという支援ではない。お互いより良い関係を築くために、一緒に悩み、一緒に考えていくスタンスを忘れない。「パートナー」「仲間」という意識がセカンドハンドと現地の人々の間に確かに存在することを実感した。
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全てが感動で、毎日が学びのツアー。そして何よりも、私たちの日々の活動が多くの人たちの生活を変え、彼らの目標や夢を実現する手助けができていることが嬉しかった。印象に残っているのがホームランド孤児院(セカンドハンドが2003年に建設支援をした)の卒業生の男の子(ブッティー)に会って話を聞いたことだ。彼は今大学3年生。電子技術者になるために勉強をしている。日本では大学進学が当たり前だが、カンボジアでは大学に進学するということは本当に大変なことなのだ。知識だけでなく、経済的にも豊かでないと到底難しい。彼は、セカンドハンドの里親支援を受けている。彼が大学に行けるのは支援があるからなのだ。彼は自分の生い立ちを私たちに話してくれた。タイとカンボジアの国境にある難民キャンプで生まれ、父親は亡くなり、母親に育てられたが、経済的に苦しくなり、彼は孤児院に入れられた。幼くして母親と別れた彼。「お金を貯めたら、ポルポト政権時代に生き別れた母親の家族を探すために役立てたい」とはにかみながら話してくれた。「フランス、日本にも行ってもっと勉強したい」と目を輝かせて夢を話してくれた。何事にも忠実に努力をし、母親を愛し続ける彼。彼ほどの寛大な人はいない。ブッティーと自分の人生を比較してみた。大切な家族が当たり前のように隣にいるのだろうか。当たり前に3食食べられて、当たり前のように温かい布団の中で寝られるだろうか。私達の「当たり前」がカンボジアではそうでないという現実を突きつけられたような気がした。そして私たちはこの「当たり前」に感謝することを忘れている気がした。
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ホームランドにいる子ども達はみんなその「当たり前」と縁のない世界を生きている。それでも毎日を笑って過ごす。夢を持って生きている。私は現実を目の当たりにするとともに、いろんなところでカンボジアの「希望」を見いだした。「人」が確かに育っていっているのを感じた。セカンドハンドが奨学金支援をしている地区の卒業生は、歯医者になって自分の地域に貢献したいと話してくれた。とても知的そうな優秀な生徒だ。私たちはセカンドハンドに救われた、だから今度は私たちが地域の人を救う番だと胸を張って答えてくれた。支援をしたお産病棟で赤ちゃんとお母さんがやすらかに眠っている光景もとても感動的だった。支援の成果は着実に広がっていると実感した。
ツアーでは、ほぼ毎晩、参加者とディスカッションをした。現地を見て何を思ったかなど深く話し合った。その日見学した支援先のことや、ふれあった人たちのことについて話合った。最後のディスカッションで「どうして国際協力をするのか。」という質問になった。私は今回のツアーで、自分がどうして国際協力をしたいのか、原点に帰ることができた。私は地球上のあらゆる問題に無関心になるのが怖い。そんな思いからこのような活動に興味を持った。みんな何かに加担しているのに、それを自分と関係ないと言えるだろうか。隣国の貧困、戦争だって、その国だけの問題ではなく地球規模の、そして自分自身の問題でもあるように思う。カンボジアの紛争、貧困、医療、教育等のサービスの欠乏。それらは私と関係がないと言えるのだろうか。必ずどこかでつながっているのだ。私たちの豊かな暮らしは地球上の誰かを犠牲にして作られているかもしれない。だから、私は国際協力をする。社会の一員である私は、それをしなければいけないのだ。
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今回私がこの活動に興味を持った原点に変えることができたし、セカンドハンドをもっと好きになった。毎日こつこつと支援金を集める。いろんな人の「力」がたくさん込められている。億単位でお金がはいるわけでもない。でも、一人一人の力が確かにそこにあり、支援につながっている。
今回のツアーで、私は改めてセカンドハンドに来てよかったと思った。たくさんの人に出会い、たくさんの人から勇気をもらった。そして、カンボジアという国をもっと知りたいと思った。いろんな問題がまだまだ隠れている。スラム地区では貧困層の家庭を襲う魔の手があった。同地区では、エイズが蔓延している。セカンドハンドの奨学生が実施している家庭教師プログラムの生徒の中にも、何名かエイズに感染している子どもがいると聞かされた。また病院が家の近くにないため、都市部の病院の受付で寝泊まりする患者が多くいるということも知った。信じられない、辛い現状もたくさんあった。けれど、しっかり現状を見据え、地域のために働きたいと願う人達がいる。私は今回のツアーで「カンボジアの原石」とたくさん出会った。その原石をさらに輝かせるために私たちがいる。支援とは何なのか。ただ与えるだけなのか。与えるだけではもしかしたら何も変わらない。そこから一人でもいいから育っていってくれることが私たちの本当の支援だ。他人事だと思わず、カンボジアで起きていることは私にも関係がきっとある。これからもこの思いを原動力にみなさんと頑張っていきたい。